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橋本努講義

人文科学入門 2010年度 小レポートのサンプル 3

 

マルクスの共産主義について

毛利 健志

提出日 6月23日

 

マルクスが重視した共産主義の3つの柱、すなわち諸能力の全面開花、自由意志的であること、理想ではなく運動へ、という言葉のうち「諸能力の全面開花」に関してはどうしても疑問が残る。

共産主義では任意の部門で働けるため、自分の持っている能力を最大限活用することができ、自分を発達させることができる。これはとても優れていて、諸能力を全面的に開花させられると感じる。だがしかし、もし一つの部門にたくさんの人々が集まってしまうとどうなるのか。人が持つ能力には個人差があるから、難しい部門よりは簡単な部門に人は集まりやすいことは明白だ。共産主義者は仲間(同じ共産主義者)を大事にするから、簡単な部門については譲り合うのだろうか。それともその部門のなかにさらに細かい部門を設けて対処するのだろか。前者の場合ならば、譲ることは自分の能力を十分活かせないことから共産主義と呼べなくなるだろう。後者の場合もさらなる分業(しかも精神的活動と物質的活動を分割しない)が行われ、それはマルクスによれば、生産力、社会状態、意識が相互に矛盾に陥った状態であり、この矛盾は分業が廃止されない限り解消されないのであるから、この措置も共産主義に反する。一体どう対処すればいいのだろうか。

とはいっても、任意の部門で働けることにはまだまだ優れた可能性が秘められている。共同体を作ることで、個人が孤独に陥らずに、積極的に共同体の中に入り込み活性化し、個々人の潜在能力を引き出せるという。共同体というのは、諸個人の自由な発展と運動の諸条件を、自分たちのコントロールのもとに置く諸個人同士が結合して成しうるものであるから、個々人の潜在能力を発揮できることは、一つの共同体としての最大の能力を十分に発揮できるということである。逆に言うと、一人欠ければその人の特殊な潜在能力が共同体には活かされない。共産主義が、諸個人を離れて自律しているいっさいの仕組みを不可能にする(余地をなくす)ための現実的土台と呼ばれているのも、共同体がなるだけ多くの諸個人を集めようとしているためだとも考えられる。となれば、共産主義はやはり仲間を重要視しているということになる。

また、マルクスは「人間は、意識によって、宗教によってその他お望みのものによって、動物から区別されることができる。人間自身はかれらがその生活手段を生産―すなわち彼らの身体的組織によって条件づけられている措置―しはじめるや否や、みずからを動物から区別しはじめる」といっているが、このことにも納得がいかない。たしかに前半部分の内容だけなら頷ける。しかし後半の「生活手段を生産しはじめるや否や、みずからを動物から区別しはじめる」という点で合点がいかない。客観的に区別はされても、「生活手段を生産」するや否や、自分で自分を動物と区別するだろうか。する人がいないというわけではないが、それではすべての人間がそう感じると聞こえる。現代文明に未だふれていない原住民族がはたして自分を動物と区別しているとは到底思えない。

マルクスの述べる共産主義は優れた個所がある一方、現実的にあやしい言論も含まれていて、甲乙つけがたい(良し悪しつけがたい)理論だと感じた。

 

 

マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』

経済学部 丑屋亜子

2010720

 

 マルクスが主張するには資本主義社会においては生産力、社会状態、意識は相互に矛盾に陥りうるし、陥らずにはいられない。なぜなら、社会的分業とともに精神的活動と物質的活動、享受と活動、生産と消費が別々の個人に属する可能性が与えられているからである。だからこそその矛盾に陥らないためには分業を廃止する必要がある。それが共産主義である。

 共産主義は一人ひとりの活動範囲を自由にし、それぞれの諸能力を開花させることを目指すという意味で自由意志的である。つまり自己の滞在能力を発揮して自分のやりたいことをやるという「〜への自由」があり、そして社会や政府からの強制から解放されるという「〜からの自由」もあるという意味である。また、成就されるべき状態や現実はそれに向けて形成されるべき理想ではない。少しでもそれに近づこうと継続する運動が共産主義である。

 マルクスの掲げる共産主義には理想的であり、現実には合っていないような一面がある。特に前者がそうである。確かに人々が自分の能力を開花させることが出来ればよいだろう。しかし、実際には自分には何が合っているのか、何をやるべきなのかわからない人は多い。それでも食べて暮らしていくためにはお金が必要であるために、皆一生懸命働くのである。自分のやりたいこと、自分に見合う仕事を見つけそれを職業としている人は数えるほどにしかいない。だからこそこの考え方はあくまで理想論にすぎず、実現は難しい。だが共産主義は何らかの理想ではないという考え方自体は共感できる。理想があってこそ現実があるが、理想ばかり追いかけても何も意味はない。理想はあくまで理想であり、目標の最終地点に過ぎない。ゆえにそこに向かって少しずつ前に進もうとする考えは現実的に妥当であろう。今日では貧しい人やお年寄り、女性などの社会的弱者に対する社会保障が手厚くなく、保障が必要な人ほど保障が受けられないような場合も少なくない。彼らを救うためには、こうした少しずつでも彼らを支えるような考え方が必要不可欠になってくるのではないだろうか。

 さらにマルクスは、唯物史観という歴史観を持っていた。従来の歴史観では人間の意識や観念、学問などの上部構造が社会や歴史が発展するための土台であるとされていた。しかし彼はこれをまったく逆転させ、物質的な生産様式つまり下部構造が上部構造を規定し、社会や歴史をつくると考えた。簡単に言い換えれば、人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。私はどちらかというとこの唯物史観に対して否定的である。なぜなら、生産様式つまり下部構造は上部構造があってこその構造であると考えるからである。人々の意思や学問、法律などを基にして生産体制は作られていくのではないだろうか。当然各人の思想によって理想とする体制は異なる。それにも関わらず、下部構造が上部構造を規定するとなると、それはかなり限定的なものとなってしまうのではないだろうか。

 

 

マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』について

我孫子 遼 2010年7月25日

 

マルクスとエンゲルスが描いた共産主義社会では、人は固定されたどんな活動範囲も持たず、それぞれ任意の、自分の思い通りの部門で自らを発達させることが出来、社会が生産全般を規制するものであると説いた。資本主義社会では、利潤を目的とする資本家の生産手段の私有によって、社会全体で行われるべき生産が損なわれ、人間は本来の姿から乖離したものとなってしまう。故に、生産手段を共有制とする社会、すなわち共産主義社会を理想としたのだ。

確かに、彼らの思い描く共産主義社会に於いては、資本主義社会における資本家と労働者の格差や、利己的な人間を生み出すことはないかもしれない。低賃金で過酷な労働を強いられる労働者は生まれないかもしれない。労働することに苦を感じることなく、むしろ喜びや幸せさえ感じるかもしれない。しかし、それは本当の意味での「幸せ・喜び」なのだろうか。

私はそのようには思わない。生産手段を社会が所有するものとし、人々は自由に活動することが出来るような社会、これを幸せだと私は思わない。人間は苦しみを味わうことで成長し、そして目的を達成できた時、幸せを感じ、生きている意味を感じる生き物である、と私は考える。いかに過酷な労働を強いられようとも、競争も何もない、成長や発展を自ら志す者が存在しない、そんな社会を私は良い社会、理想的な社会だとは思いたくはない。

資本主義社会に於いて、貧困に悩まされ苦しむ者、利潤を獲得し楽々生活を送ることが出来るもの、多種多様な人間がいるのは当然である。この社会に於いて、人間みんな平等であったらいいのに、と考えるものも少なくはないだろう。私自身、人生18年間それほどの貧困さを味わうこともなく、親にお金を出してもらい、大学入学試験を受験し、国公立大学に入学することが出来た。そんな人間が貧困で苦しむ人間がいるのは、仕方のないことだ、などと述べても説得力に欠けるかもしれないが、それでも、色々な人間がいるからこそ、人間は目標達成のために努力するのであり、ひいては、社会全体が成長・発展を遂げるのである、と私は主張したい。人々が強制的に社会の枠組みとして、皆平等に生きらせられる、そんな社会は「面白い」ものではない。「面白い」という表現は適切ではないかもしれないが、共産主義社会では、野望や希望、妬みや恨み、喜びや悲しみ、といった喜怒哀楽、感情が非常に少なくなってしまうように思えてならない。人間は様々な感情や喜怒哀楽を表現できる生物なのだから、その能力を使わなくてはもったいない。

マルクス、エンゲルスは、資本主義社会における労働者は、過酷な労働を強いられること、やりたくもない仕事を、自らが希望しない仕事を、一部の人間に管理・運営されることで、人間の本来の姿から乖離してしまうのではと考え、共産主義の社会こそ理想的であると考えた。しかし、実際は共産主義の社会こそ、人間を夢も希望もない、社会の一部分として機能する、ただの「モノ」として扱うような、そんな社会である、と私は考える。

 

 

「マルクスとその思想」

2010/06/22佐藤功太郎

 

 マルクスらが目指す革命、それはもちろんブルジョワジーの支配する近代市場主義体制からプロレタリアの共同体による新たな社会体制を築くことである。マルクスらの歴史観を端的に示しているのは、この「ドイツ・イデオロギー」の中では次の部分だと私は考える。『歴史とは、個々の世代の連続に他ならず、それぞれの世代は、以前のすべての世代から贈られた諸材料、諸資本、生産諸力を利用するのであり、………………これまでの古い状況を変更する。』世代が交代する時、すなわち支配者層が交代する時階級闘争というものは必ず起きた。ブルジョワが王侯貴族から支配権を獲得する革命、そしてマルクスらの目指す、プロレタリアがブルジョワから支配権を獲得する革命。この過去の歴史を研究することから導き出されるマルクスらの革命論は、非常に理知的かつ合理的に見えたため多くの人々の注目を集め、当時の資本主義社会がもたらした労働災害などの悪弊に対して鬱屈した思いを抱えていた人々からの歓迎を受けたに違いない。

マルクスは、「自由」を「その人間の能力を最大限に発揮できる状況にその人間を置くこと」と定義した。一方、当時の産業社会はと言うと「分業」によって個人(労働者)はある特定の生産活動をするよう社会から強制させられている、とマルクスは言う。そこには当然彼の言う「自由」はない。なぜなら近代市民革命によって獲得された「自由」はブルジョワが所有する「財産の自由」であるからだ。このように、歴史認識という点からもマルクスらの科学的社会主義は興味深いものであると言える。

 マルクスらの活動によって本格的になった社会主義運動は、その結果として様々なタイプの国家や政治機構を生み出した。レーニン、スターリン、毛沢東、カストロ、といった人々がそれぞれの思い描いた形で社会主義共同体を築いていった。なぜこのように様々な姿の社会主義共同体が生まれたのだろう。授業で「ドイツ・イデオロギー」に触れて、私の思ったことを述べたい。

「ドイツ・イデオロギー」を見ると、共産主義革命の根拠や正当性、目的や手段などの革命へ至るまでのプロセスは明瞭に描かれていて、かなり具体的だ。一方、産業社会を打ち壊してプロレタリアがブルジョワより支配権を獲得した後の社会のビジョンについてはどうだろうか。確かに共産主義社会ができた後の姿については大まかには述べられている。しかし、ブルジョワの支配が無くなって、そこからどのようにしてプロレタリアの社会を作るのか、またその社会の政治機構の具体的な姿についてはほとんど書かれていないように思われる。政府の形、国家の形というものが無ければ社会として成り立つわけがない。

もしかしたら、マルクス自身は革命後の共産社会の具体的な形まで明確なビジョンを持っていたのかもしれない。しかし結果的に、レーニンのソビエト連邦、毛沢東の中華人民共和国、カストロのキューバという形で社会主義は具体化し、マルクス自身は新しい社会を作ることはできなかった。レーニンらのビジョンはマルクスのビジョンと同じものだったのだろうか。

 

 

マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー」

2010/07/21 富岡 悟

 

 今回扱ったのはマルクスとエンゲルスによる共産主義だが、共産主義はロシア、中国などで実行され、失敗という一応の結果を見せている。その理想の行く先を知ってしまっているという点で、始まる前は、前回までの講義とは少し質の違ったものであるように考えていたが、その考えこそ違っていたことがわかった現実に起こった共産主義とその理想の違いも交えて記述していきたいと思う。

 まず、今回の講義の中で現実の社会主義国家、共産主義国家は本当の共産主義の姿とはかなり違った姿をしたものであったことがわかった。マルクスの考えでは、支配者階級のみで国を治めるべきではないと述べられているが、実際にはロシアや中国において、支配を行っていたのはエリートによる官僚組織であった。さらに、マルクスは労働を、諸個人が任意の仕事を自由意志的に行い、自らを発達させ、諸能力を開花させるためのものとしている。しかしそれらの国々でそのように自由な労働体系が存在したことはないし、こと中国においては毛沢東による大躍進政策により、望まぬ労働を強制されていたという過去もある。ゆえに実際には真の共産主義とはかけ離れた、劣化した偽物が存在しただけであり、マルクスとエンゲルスの共産主義が失敗したのかという問に対しては、かつてそのようなものはなかった、という考え方もできるように思える。だからといって私が共産主義国家に未だに希望を見出しているというわけでもない。マルクスはこの著書において、「共産主義とは、現実がそれに向けて形成されるべき何らかの理想ではない。現状を止揚する現実の運動を共産主義と名付けている。」というようなことを述べているが、そのためにはあまりにも理想のままに終わりそうな問題点がある。まず結論から言えば、論じられている中での「人間」というものの存在があまりにも高度すぎるという点である。諸個人が分業を行わず、好きなように生産活動や、芸術活動などを行い、その上で需要と供給が一致する計画が達成される。そのようなことが人によって実現されるならば最高の社会が出来上がるだろう。ただ誰が見ても明らかなように成功するはずが無いだろう。そこまでタイトな条件でなくとも、かなり高いハードルであることは間違いないであろう。実際の共産主義が破綻した一因もこのあまりにも理想的な社会にあると思える。

以上、今回のマルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー」と実際の歴史と比較して考えてみた。批判的な書き方をしたものの、現在の世界の状況にとって良い結果をうむのではないかと思える部分もある。現在の世界的な発展スピードの過多性については、共産主義の考え方は一つの答えになっているように思える。ひたすら競争を重ね、進化を求める状態にも、石油の枯渇、環境の悪化などにより限界の見えてきた感もある。そこで「自然成長性をはぎとって、結合した諸個人の力に服せしめる」という点は、資本主義社会においてこそ必要な考え方だと思える。過去の失敗から共産主義をただ全面的に排除しようとするのではなく、部分的に考察することで、より良いシステムを求めることは重要なことだと思われる。

 

 

マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』

2010/07/26

齋藤洋子

 

◆マルクス(1818〜1883)、エンゲルス(1820〜1895)

 ドイツの社会主義者。ドイツ古典哲学を批判し、弁証法的唯物論、史的唯物論を仕上げ、その理論の普及と実践活動に献身。これを基礎にイギリス古典経済学、フランス社会主義の科学的・革命的伝統を継承して科学的社会主義を完成させた。共著に『共産党宣言』。

 

◆『ドイツ・イデオロギー』

 本書は上記2名の共同著作。未完。プロイセンの強権支配に対して、ドイツでは政治闘争の方法として哲学が用いられていた。しかし彼らはこのような方法には限界があるとして、現実の変革を目指す共産主義思想をつくりだした。本書においては、序文に「夢見心地でまどろんでいるドイツ国民お好みの、現実の影に対する哲学的闘争を物笑いにし、信用を失墜させることが本書の目的である」とあるように、L.フォイエルバッハの唯物論、M.シュティルナーの無政府主義的個人主義、K.グリューンらのドイツ社会主義などを批判しながら、唯物論的な歴史観の基礎を明らかにしようとした。尚、マルクスの生前は出版されず、完全な形で出版されたのは後になってからである。

 

◆メモ(ブリタニカ国際大百科事典より)

・唯物論:世界の根本的原理ないし実在を物質とみなす立場。物質一元論的世界観。

社会へ応用→史的唯物論:歴史の発展の原動力は、社会的生産における物質的生産力とそれに照応する生産関係とからなる社会の経済的構造にあるとする立場。その上に政治・宗教・哲学・芸術などの制度や社会的意識形態が上部構造として形成され、やがてその生産関係は生産力の発展にとって桎梏となり、新しい、より高度の生産関係に変わるとされる。

・共産主義:私有財産制を廃止して、全財産を社会全体の共有にしようとする思想また運動。マルクス・エンゲルスは『共産党宣言』において、史的唯物論に基づいて、階級闘争によるプロレタリアートの勝利や共産主義の必然性などを宣言した。

 →共産主義社会:マルクス主義理論によって提示された社会形態。私有財産制と国家を廃絶し、財産の共有を基礎として人間疎外を止揚した人類史の最高段階と位置づけられている。共産主義は低次の段階としての社会主義と区分される。社会主義段階では、資本主義の痕跡を残しており、能力に応じて労働し、労働に応じて消費する。だが共産主義の段階に至ると資本主義的要素はすべて取り除かれ、能力に応じて労働し、必要に応じて消費する。ここにいたってはじめて疎外は止揚され、人間の解放は実現するとされている。

 

◆感想

 社会主義は既に歴史において失敗を経験した。しかしそれでも私は、マルクスの史的唯物論における、全歴史の根本条件=食べること、飲むこと、住居、衣料その他若干の要求を満たすための諸手段の産出、物質的生活そのものの生産に目を向けた歴史分析の手法は、現代においても重要な役割を果たすのではないかと感じた。なぜなら、やはり歴史を構成するのは人間であって、その人間の活動は上記のようなことが満たされることではじめて動き出すのである。しかし、マルクスたちの述べた歴史観が、すべての人間社会において機能するとは思わない。なぜなら、既存の文化や歴史、環境、その他多くの要素によって、人間は多様な背景を持ち、それぞれ少しずつ異なった行動・思考の様式を持っているからである。例えばひとつの問題が起こったとしても、その解決方法は全く一様にはならないはずである。人間にとって、「これが一番である」というような社会構造は存在しないのかもしれない。どのような方法を取ったとしても、必ず損をする者、得をする者が出てくるのかもしれない。けれども、それならば私たちの社会はこのまま成り行きに任せていてもいいのだろうか?私は、そうではないと考える。確かに、彼らの描く社会は些か理想的すぎた。しかし、「こうありたい」という社会への大きなビジョンを持ち、思考し、そして改革へ向かって行動していったという点は、現在の我々も見習うべきなのではないだろうか。政治家に文句を言うだけでなく、もっと能動的に、現状を見なおしていくことが必要なのではないか。例えば日本においても、どうもこのような活動は低迷しているように思う。政治の代表である政治家たちですら、自分の党の主張に縛られ、のけ者にされないように言いたいことは包み隠している。権力を握った上部の者たちだけが声を大きくしているだけである。官僚制にも確実に問題が存在しているのに、一向に変革へと向かわない。もっと議論していくことが必要なのではないか。既存の形式にとらわれずに、思い切った新たな方式を打ち出していくことが必要なのではないか。そして、「よりよい社会」を作り出すためには、既存の社会構造での権力者ではなく、我々一般の市民が先導していくべきである。歴史の中で、我々は多くのことを学ぶことができる。そしてそれを、未来へと活かしていくことが今こそ必要とされていると感じた。

 

 

マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』について

笠原伊織 2010.7.23改訂

 

 『ドイツ・イデオロギー』の中で語られる思想の中で、共感できる部分と、共感できない部分を列挙し、自分の考えを述べていきたい。

*共感できる部分

 マルクス、エンゲルスの理想とする人間像にわたしは共感できる。かれらは、諸能力を全面開花させて、いろんな職業に就くことを人間の理想とし、そうすることで人間は人間的になれ、自由を得ることができる、と言っている。能力を開花させいろいろなことができるようになるのはそれ自体で喜びだ。わたしは中学まで野球、高校では弓道をやっていたが、段々と技術が上達していろんなプレーをすることができるようになるととてもうれしいと感じたし、プレーの幅が広がるとグラウンドや道場で自由を感じることができた。自分の例は諸能力の全面開花とまでは行かないかもしれないが、ひとつでも多く自分ができることが多くなることが理想であるのは本当にその通りだと思う。

 共産主義は理想ではなく、現状を少しでも進歩させる運動である、という部分にも共感できる。マルクス、エンゲルスの言葉だと「現状を止揚する現実の運動」だ。いっぺんに全体がひっくり返らなくても、少しずつでもいいから世直しを進めていこうという姿勢はすばらしい。現実が一気には変わらないとわかってしまうと、途方にくれて絶望し、ただの現状維持・現状肯定な人間になってしまいがちだ。そうではなく、たとえ絶望しても変えられるところから改善していこうという姿勢は現代の人間こそ持つべき姿勢だと思う。20世紀の歴史には変わらない現実を一気に変えようとして、極端な暴力行為に走る例があった。それには、マルクスの思想に触発されて起こった文化大革命や日本の学生運動も含まれる。もう一度マルクスやエンゲルスの思想を読み直し、「現状を止揚」していくという態度を取るべきではないか。

 分業への批判も共感できる。そもそも分業は人間としてバランスが悪い。特にマルクス、エンゲルスが指摘している、精神的労働と物質的労働の分業がそうだ。研究室にこもりきって実生活に遊離した思考しかできない人間もいけないし、機械のように働き自分で物事をまったく考えない人間もやはりいけない。ルソーの労働者=哲学者の考え方にあるように、働きつつなおかつ思考するという両義性を持つ必要がある。貧しい家庭からのエリートこそが新しいビジョンを持つことができる、と講義であったがまさにその通りだと思う。

*共感できない部分

 「潜在的能力を発揮する自由」のところで、孤独を個人の活性と対置させた部分には共感できない。孤独であっても潜在能力を発揮させることはできるだろうし、共同体に属して却って、自分の能力を押し込めてしまうこともあるのではないか。たとえば、本を読んでいるとき人は孤独だが、思考する能力を発揮することができる。逆に群れ集まって堕ちて行く人もいるのだ。

 

 

マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー」について

教育学部 菅浪萌

 

マルクス・エンゲルスの説いた共産主義とは、財産の私有を否定し、生産手段・生産物などすべての財産を所有することによって貧富の差のない社会を実現しようとする思想・運動のことであるが、そのような社会は理論上実現可能だとしても、それは理想の社会といえるのだろうか。そもそも、「理想の社会」とは一体どんな社会なのだろうか。

 共産主義社会では、歴史上作り上げられてきた政治的支配階級は消滅し、生産力が高度に発達して、各人は能力に応じて働き、必要に応じて分配を受けるとされる。その社会は、誰が過酷な生活を強いられるでもなく、政治的支配階級を廃し、生きているすべての人が平等な生活を送ることができるという理想の社会であることは間違いない。そしてすべての人が平等に生きられれば、何の争いごとも起きる心配はなく、いかなる人も不満を感じることはなく幸せに生きることができる。これらを考慮すると、確かに共産主義社会は理想の社会であるといえるだろう。

 しかし、共産主義社会には何の問題もないように思われても、すべての人がそれぞれ持っている能力を生かせる天職につくことは果たしてできるのだろうか、という問題も生じてくるはずである。すべての人々が自分の天職を見極め、その職業に就くようにするというのは困難な課題である。なぜなら、各個人がその仕事の向き不向きを見極めるには大変時間がかかるし、その仕事の募集人数と希望者の人数が合わないことも大いに予想されるからである。また、天職だと思ってその仕事に就いても、実際始めたら思っていたのとは違って途中で辞めてしまう可能性もある。しかし、そもそも天職というのは存在するのだろうかという考え方をすればこの問題は解決できるかもしれない。人間はある程度の範囲内であれば、その環境に適応できる能力を持っている。自分に合わない仕事も、数をこなしていくうちに慣れて、その仕事の能力が上達していくことだってある。ガラス工芸や陶芸などの職人技と呼ばれるものも、実際は小さいころからの鍛錬であり、多少は血筋というのも関係するだろうが、大部分は慣れであるだろう。そう考えると、たとえ天職というものが存在しなくても、どの仕事に就いたとしても自分の能力は発揮できるだろう。

 しかし、共産主義社会での報酬に関しての問題も考えられる。すべての人が同じ時間働いても、個人差があるため、こなした仕事量に差が生じてくるのは必然的に避けられない。迅速かつ正確に仕事をこなせる人と、遅くても正確に仕事をこなす人がいたとすれば、当然前者の方が1日にこなす仕事量は多いはずであり、それに見合った報酬が与えられるべきであるが、共産主義社会では、両者とも同じ給料にしなければならない。すべての人が平等に待遇を受けるという考えに基づくのであれば当然のことである。ある分野での能力の個人差は生まれながらのものであるから、それに関して秀でている人もいれば秀でていない人もいるわけなので、前者が後者の分まで補うのはある意味当然のことと考えてもいいのかもしれない。しかし、それでは社会はより高次な次元にたどり着くことは出来ない。ある分野で人並みはずれた能力を持った人がいたとして、どんなに仕事をこなしても自分より仕事をこなすのが遅い人と結局は報酬が同じなのであれば、その仕事に一生懸命になることは難しいだろう。人間は少なからず欲を持っているので、大抵の人は何かの褒美があってこそ頑張れるのである。すべての人が同じライン上に常に立ち、一緒に成長していくというのが共産主義社会であるならば、資本主義社会は各個人の位置はバラバラではあるが上位層だけを見れば共産主義社会のライン上をはるかに飛び越して成長していくと例えることができるだろう。ただこの時資本主義社会の下位層はいつまでもその場に取り残されてしまうことが考えられる。

国家の成長を第一にするのであれば資本主義社会が良く、国民の平等を第一にするのであれば共産主義社会が良い。国家の成長と国民の平等どちらをとるかで理想の社会は変わってくるのではないだろうか。